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新潮文庫のアンソロジー『七つの忠臣蔵』を衝動買いした。
中に菊池寛の「吉良上野の立場」が収録されている。 タイトル通り、忠臣蔵の顛末を吉良上野介の立場から読み直した作品である。 文楽や歌舞伎、講談等で伝統的に忠義の仇討ち話として伝えられてきたものを読み替えるという試みが大変、面白い。 もちろん、現代ではそういう議論もなくはないだろうが、(初出はわからないが)菊池寛の時代にこの読み替えは結構、斬新だったのではないだろうか。 読んでいると、浅野内匠頭長矩が短期で吝嗇な、若い大名にしか見えてこない。 百歩譲って、日本的な根回しや慣例を無視する近代的な人物と捉えることはできるかもしれない。 しかし、私が年をとってしまったからかもしれないが、この場面では、それは短慮でしかなく、浅はかというしかないように思われてくる。 だから、その内匠頭の仇討ちをする四十七士も、学校で叱られた我が子の仇討ちをするモンスター・ペアレンツぐらいにしか見えてこない。 かといって、菊池寛は、吉良上野に肩入れしているわけでもない。 上杉の附家老・千坂兵部の目を通して、上野介のことを「頑固な爺(じじい)」と言わせている。 このバランスが面白い。 もうひとつ。 吉良上野介が、後の時代の言説空間にまで意識を及ぼしているところが興味深い。 「これで、俺が討たれて見い、俺は末世までも悪人になっていしまう。敵討と云うことをほめ上げるために、世間は後世に俺を剛欲非道の人間にしないでは置かないのだ。」 「わしは、殺された上に、永劫悪人にされてしまうのだ。わしの云い分やわしの立場は、敵討と云う大鳴物入りの道徳のために、ふみにじられて了うのだ」 と何度も、後の言説空間の一方性について批判する。 そして、最後、吉良上野は、 「浅野主従、世間、大衆、道徳、後世、そのあらゆるものに、刃向って行く気持で、その短刀を抜き放って、ふらふらと立ち上がっ」 て討たれるのである。 そういったあたりから、この「吉良上野の立場」は近代小説だと言えるだろう。 大衆小説でありながら、〈世間、大衆、道徳〉の言説空間が、一方的に偏向してゆくことに対する一つの批判となっている。 その批判は、二十一世紀の現代をも十分照射するものである。 『文藝春秋』を創刊した菊池寛がそのようなことを書いているというところが、アイロニーとなっていて、それもまた面白い。 PR |
]д・)チラッ おひさしぶりです。
【2017/02/22 22:24】| | Weißer Stein #6aff446cbf [ 編集 ]
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